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zoom RSS 上手に宣伝する新自由主義

<<   作成日時 : 2015/03/06 12:27   >>

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新自由主義について施先生がとてもうまいことを言ってますので、少し長いですが転載します。

【施 光恒】「修行」と新自由主義  (三橋貴明の「新」日本経済新聞)

<一部抜粋>

しかし、ニュースでは、相変わらず新自由主義(市場原理主義)の経済政策が花盛りです…。
(´・ω・`)

電力・ガス10兆円市場を開放 分社化義務付け 電気事業法改正案を閣議決定」(『日本経済新聞』2015年3月3日付配信)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF03H0D_T00C15A3MM0000/

特区に外国人・女性呼び込み 政府が追加規制緩和案」(『日本経済新聞』2015年3月4日付配信)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO83923790U5A300C1EE8000/

電力・ガス市場の自由化も難なく通りそうですし、国家戦略特区では外国人や外国企業の呼び込みに必死です。TPPも遅くとも今年前半には通ってしまいそうですし、農業、漁業や医療の株式会社化への準備も着々と進められつつあるようにみえます。小学校での英語の正式教科化や大学の授業の英語化など、英語偏重の教育改革もどんどん行われています。

格差の拡大」や「地方経済の衰退」、「事実上の移民解禁による治安の悪化」、「英語偏重による日本のアイデンティティの喪失」など、いろいろと懸念が提示されているのに、なぜ、新自由主義や、それに基づくやみくもなグローバル化の推進が、止まらないのでしょうか。

新自由主義がなぜ各国で受け入れられてしまったのかについて、新自由主義批判の代表的論客である経済地理学者デイヴィッド・ハーヴェイ氏(ニューヨーク市立大学名誉教授)が興味深いことを書いていました(ハーヴェイ/渡辺治監訳『新自由主義──その歴史的展開と現在』作品社、2007年)。

まず、ハーヴェイは、新自由主義は、きちんとした「学説」というよりも、いんちきなイデオロギーに過ぎないと批判します。

たとえば、新自由主義は、表向きは「小さな政府」や「公正な競争」を唱えます。しかしその実、グローバル企業は、米国をはじめとする各国政府と密接に結びつき、政治力(国家の力)を存分に利用して、自分たちがビジネスしやすい環境を半ば強引に作り上げていきます。その結果、グローバルな投資家や企業に有利で、各国の一般国民には不利な社会ができてしまいます。

(例えば安倍政権は、日本に投資する外資系企業に対し、副大臣、政務官クラスの政府高官をわざわざ付け、様々な便宜を図るという「企業担当制」を始めるそうです。あからさまなグローバル企業優遇策ではないでしょうか)。
3月に対日投資促進策 「企業担当制」を創設」(『毎日新聞』2015年2月24日付)
http://mainichi.jp/select/news/20150225k0000m010075000c.html

米国も例外ではなく、80年代のレーガン政権以降、グローバル企業が儲ける一方、格差は大幅拡大しています。一般国民は貧しくなり、生活の不安定化に悩まされています。

なのになぜ、米国の一般国民の多くは、これまで新自由主義を事実上、受け入れてきてしまったのでしょうか。

ハーヴェイ氏は、米国で新自由主義が広く受け入れられるようになったのは、新自由主義やそれに基づくグローバル化の推進こそ、「自由」、特に「個人の選択の自由」をもたらすものだという宣伝に一般国民がまんまと騙されてしまったからだと指摘しています。

米国人は、「自由」、特に「個人の選択の自由」という言葉に非常に弱い。「新自由主義こそ、「選択の自由」を拡大する望ましい考え方だ!!」と言われると、それにコロッとひっかかって、説得されてしまったのだというのです。

ハーヴェイ氏は次のように書いています。

『自由』という言葉は、アメリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは「大衆への扉を開くためのエリートたちの押しボタン」になってしまい、ほとんどあらゆるものを正当化する」(同書、60頁)。

「自由」や「個人の選択」というのが、米国人を説得する時のいわば「マジック・ワード」なんですね。だいたいのものは「自由」と結び付ければ、米国国民は受け入れてしまいます。アフガン紛争やイラク戦争も、「自由」で正当化され、米国民は納得してしまいました。

実際、アフガニスタン紛争での作戦名は「不朽の自由作戦」(Operation Enduring Freedom)でしたし、イラク戦争の場合は「イラクの自由作戦」(Operation Iraqi Freedom)でした…。
ヘ(´_`;)ヘトホホ

新自由主義的政策を一般国民に受け入れさせる際にも、米国の財界人や政治家、官僚などのエリートは、「自由」を用いたのです。

政治家や財界人や学者に、

小さな政府、自由化、民営化、規制緩和が必要だ!これらは、ユーたちのフリーダムを増やすよ!!

グローバル化によって、「自由」というアメリカ的価値を世界に広げることが我々の使命なのだ!自由貿易をどんどん推進し、外国にも「自由」の恩恵を施すべきだ。自由万歳、アメリカ万歳!!

などと言われると、米国人の多くは「Oh! イエ〜ス!ウィ キャン!!」と、右派も左派も、半ば思考停止して納得してしまうというわけです。

文化によって価値観が違うので、新自由主義的政策が、どのような論法で国民に受け入れられるかは国ごとに異なるだろうと、ハーヴェイは述べています。

さて、では日本ではどうなのでしょう。どのような論法、価値づけによって、日本の一般国民は、新自由主義的政策を受け入れさせられてしまったのでしょうか。ハーヴェイのいう「大衆への扉を開くためのエリートたちの押しボタン」とは、日本では何でしょうか。

少々ヘンな言い方に聞こえるかもしれませんが、日本の場合は、「修行」系の言葉だと思います。もっと現代的な言い方をすれば、「自己啓発」系の言葉といってもいいかもしれません。

日本人は、伝統的に「修行」好きです。「修行」こそ、日本文化の根底にある特徴的な価値の一つです。

現代の感覚からすると「修行」という言葉はちょっと大げさな印象を与えるかもしれませんが、現代の我々も、「修行」系の価値──「精進」、「努力」、「自己啓発」、「自分を見つめる」、「自分を高める」、「視野を広げる」など──がやはり大好きです。

もっと丁寧にいえば、「周囲の他者のさまざまな観点を知り、取り入れ、そこから自分自身を厳しく見つめ直し、自分に欠けているものを反省し、一生懸命努力・精進することによって視野を広げ、周囲の期待に応えられるように自分を高めていく」ことが大切だと、現代でも日本人の多くは考えています。これについては、右も左も、あまり関係ありません。

日本では、新自由主義的な経済政策やその一つとしてのグローバル化推進は、こうした「修行」系の言葉に結び付けられることによって、正当化されてきたのだと思います。

90年代後半以来、「グローバル・スタンダードに合わせる」、「聖域なき構造改革」、「身を削る覚悟」、「痛みを伴う改革」などのスローガンが使われてきました。最近でも、「第三の開国」、「日本を開く」、「グローバル人材の育成」、「多文化共生社会の実現」などを、政治家や財界人が連呼しているのをよく耳にします。

日本の場合、基本的にこれらは、「修行」系の価値に結び付けられています。

日本人、および日本社会はこれまで、閉鎖的で内向きだった。グローバルな世界に目を開き、国際社会が日本に何を期待しているかをよく認識し、それに応えなければならない。閉鎖的でぬるま湯のような体質を各業界で打破し、痛みを伴う改革に耐え、グローバルな視野を獲得するように努め、自分自身や社会を不断に変え、高めていかなければならない。世界で輝く日本にしていかなければならない」。

はっきり示されることはあまり多くないとしても、だいたい上記のような暗黙裡の論法によって、新自由主義的構造改革やグローバル化が推進されてきたのだと思います。

日本人にとって、新自由主義的な改革やグローバル化とは、単なる経済政策ではなくて、いわば「人格陶冶」や「自己啓発」、つまり「絶えざる努力によって視野を広げ、自分を変える、自分を高める」ことと結び付けられてしまっているわけです。

「国による余計な規制や調整などいらん。グローバルな市場経済の荒波のなかで、俺は自らを切磋琢磨していけるのだ! 皆もそうなれるよう努力・精進を重ねていかねばならない!!」

「外国人労働者や移民が増えたとしても、リベラルな私は、何の問題も感じません。かえって、マルチ・カルチュラルな環境のなかで視野を広げ、自分をブラッシュ・アップしていけます。皆、そうでなければなりません!日本人こそがその閉鎖性を打ち破り、自ら変わる必要があるのです!!」

なんかそんな感じのことをよく耳にしませんか。

「新自由主義」も「グローバル化」も、日本人にとっていわば「道」、「修行」なんですね。「柔道一直線」ならぬ「グローバル道一直線!!」というわけです。

そのうち、「ネオ・リベラル切磋琢磨塾」、「グローバル人材育成道場」なんかもできるかもしれません(笑)。

…と思って検索してみましたら、とっくにありました。
ヽ(ー_ー )ノ ヤパーリ

東京都教育委員会が「グローバル人材育成」のための「次世代リーダー養成道場」なるものを開設していました…。
http://www.tokyo-jisedai.com/about.php

結局、

規制を撤廃し、民営化・市場化が進んだ社会」=「皆が努力し、切磋琢磨し、人格を高めあえる社会
=「新自由主義的社会

国境の垣根を低くし、多様な人々が共に働く、多文化共生社会」=「互いに視野を広げ、高めあえる社会」=「移民国家ニッポン

新自由主義推進派は、いわば、こうした等式を暗黙裡に作り上げ、利用しているのです。

よく考えてみればすぐにインチキくささのわかる等式なのですが、こう結び付けられてしまうと、いわゆる「意識高い系」(「修行」好きの現代人バージョン)で前のめりになっている人々は、新自由主義的政策やグローバル化路線を、右派でも左派でもなかなか否定できないんですね。

政治家や官僚、財界人、学者、マスコミなどには、右派にも左派にも「意識高い系」が多いので、新自由主義にどっぷりつかり、周囲に押しつけることになるわけです。

このように、日本では、新自由主義や、それに基づくグローバル化路線が、日本人の好む「修行」や絶えざる「自己啓発」の理念と結び付けられ、広められてきたのではないかと思います。

この結びつきをどのようにしてほどき、「修行」好きの日本人の生真面目さに付け込む「新自由主義」や「グローバル化路線」の推進派に対抗していくかが問題となってきますが、それについては、次回(二週間後)のメルマガで考えてみたいと思います。

  (http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/03/06/se-54/

自由」というのは翻訳語で、「Freedom」や「Liberty」とはニュアンスが異なるようです。
もともと日本と中国では「自由」というのは「わがまま」の意味が強く、現在日本で使用されている「自由」という言葉はとても紛らわしい使い方になっているとのこと。(翻訳語成立事情
「自由」は使い方に注意が必要なようです。

それにしても米国人と日本人では意識にこんな違いがあるとは思いませんでした。
米国人は「自由」を求め、日本人は「修行」を求めるのだとは。

日本が常に先進国なのは常に需要を満たそうとするから」というようなことを三橋氏が言っていたようですが、まさしく日本人は「常に足りないものを補おうという意識を持っている」から修行好きになるのでしょうか。
それとも根っからの修行好きなのか?

「新自由主義」のように一見正しそうな宣伝文句で、日本人の修行好きに火が点いてしまったのか。
メディアなどの扇動によって国民の意識をある方向へ持っていくことはできるのでしょう。
メディアが反日なら当然悪い方向に持っていくわけで、我々はもっと気を付けないといけないのですかねぇ。
  

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