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zoom RSS 真の国際貢献とは? ずれる日本の「リベラル」

<<   作成日時 : 2015/02/22 23:13   >>

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「移民を受け入れておいて、居住区は別にした方が良い」という曽野綾子氏のコラムが批判されているようです。

【施光恒】曽野綾子氏と日本の「リベラル」  (三橋貴明の「新」日本経済新聞)

<一部抜粋>

曽野綾子氏が産経新聞に寄稿したコラムが物議をかもしていますね。

数日前に三橋さんも下記のリンク先のブログ(メルマガでも配信)で取り上げていましたが、曽野氏のコラムは、介護分野などの経済的移民を受け入れたうえで、居住区は別にしたほうがいいという趣旨のものでした。(曽野氏のコラムの大意は、三橋さんの下記のブログ内で読めます)。

【三橋号外】「思想」の恐怖(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2015年13日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/02/13/mitsuhashi-198/

多くの批判が寄せられていますが、私も、曽野氏の議論には、賛成できません。

とりわけ曽野氏の議論で問題なのは、経済的移民を肯定しつつ、居住区は分けようという点でしょう。経済的利益だけ受け取って、外国人労働者や移民の居住の自由などを制限してしまう。いいとこどりで、自己中心的な印象をやはり受けます。

ただ、今回の私の主目的は、曽野綾子氏の批判ではありません。それよりも、曽野氏のコラムに対する「リベラル派」からの批判のあり方のほうを取り上げたいと思います。

「リベラル派」の批判の多くは、「外国人労働者や経済的移民の受け入れは仕方がない。不可避的な時代の流れだ」とします。そのうえで、「日本を多文化共生社会とするために日本人は努力すべきである。曽野氏の議論は閉鎖的で排外的でよろしくない」とする趣旨のものが主だったといえます。

つまり経済的移民の受け入れ自体は、批判しないのです。
(・ω・)ナゼ?
______________

私は、以前もこのメルマガで何度か書いていますが、外国人労働者や経済的移民の受け入れには、基本的に反対です。ヨーロッパの経験をみれば、社会的安定性の喪失などその失敗は明らかです。また、外国人労働者や経済的移民の推進は、別に「リベラル」でも「人道的」でもないと考えるからです。

(以前の記事は下記です。)
【施光恒】移民受け入れは人道的か?(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2013年8月9日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/09/se-19/

【施光恒】ヘイトスピーチ規制の本末転倒(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2015年1月23日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/01/23/se-51/

上記の記事でも論じましたが、豊かな先進国が、発展途上国の貧しさにつけこみ、自国民がやりたがらない低賃金労働につかせるため、海外から人を呼んでくるというのは上等な発想ではありません。

貧しい国の人々が、先進国で、先進国の人が望まないメイドや介護、肉体労働といった仕事に従事せざるをえない状況とは、人道的でもリベラルでもありません。こういう出稼ぎや、移住は、貧しい国の人が本当に望んでいることではありません。

例えば、将来、日本が経済的に貧しくなって、我々の子孫である日本人が出稼ぎ労働者、あるいは移民となって、低賃金で、豊かな国(アメリカかもしれませんし、中国かもしれません)のメイドや肉体労働の仕事に就かざるをえない。私は、そういう日本の姿を想像しただけで、胸が張り裂ける思いがします。

外国人労働者や経済的移民を現在、送り出さざるを得ない国の人々も、おそらくそういう気持ちでしょう。

彼らが真に望むのは、自分の国で、自分たちの言語や文化のなかで、自分たちの家族や仲間と一緒に働き、多様な人生の機会と豊かな生活を享受することです。

人道的見地、あるいは真に「リベラル」な見地からすれば、先進国がなすべきは、移民や外国人労働者を無批判に受け入れ、途上国の貧しさに乗じて彼らの労働力を利用することではなく、経済的移民など生じなくても済む、もっと平等な国際秩序作りを提唱し、その実現のために尽力することです。

上記の過去記事でも触れましたが、現在の世界には、国際的な不平等を固定化してしまう仕組みがたくさんあります

例えば、自由貿易は絶対に正しいという前提で、発展途上国に対しても市場開放を迫り、保護主義的な政策を認めない新自由主義的な経済構造です。これでは、なかなか自国資本の産業は発展せず、途上国が、先進国に追いつくことはほぼ不可能です。

英語による文化支配も一例です。貧しい国では、少数のエリートは英語を用い、大多数の一般庶民は現地語を使って生活しているという光景が非常によく見られます。英語でなければ高等教育が受けられず、稼ぎのいい専門的職業にも就けないという社会です。こういう社会では、多くの一般的人々は、十分に自分の能力を磨いたり、発揮したりすることができず、貧しいままにとどまります

言語が違うと国民の一体感も生まれないので、国民はバラバラで、適切な経済政策や福祉政策をとることもできません。結局、貧困から脱することが出来ず、先進国になかなか追いつけません。

ですので、本当に「人道的」あるいは「リベラル」な立場からすれば、無批判に外国人労働者や経済的移民を受け入れ、低賃金で彼らを利用することを認めるべきではなく、自由貿易を絶対視する新自由主義的経済構造や、英語による文化支配をはじめとする現在の不平等な国際秩序の不当性を暴き、これらを除去するよう努めるべきです。
______________

日本は、保護主義的政策を適宜導入しつつ、自国の資本や産業を発展させ、国民を富ませ、内需中心で豊かになることに成功した国です。(実際は、イギリスやアメリカも含め、現在の先進国は、皆、保護主義を適宜、用いつつ、自国経済を発展させてきたのですが、イギリスやアメリカなどは現在では、あまりこのことに自覚的ではないようです)

また、日本は、外国から積極的に学びつつも、母語である日本語や日本文化を守り、その基盤の上に近代化を成し遂げてきた国です。我々は普段あまり意識しませんが、外来の知を取り入れつつ、母語で近代化するためのノウハウをおそらく世界で一番持っています

日本は、現行のアメリカ主導の新自由主義的な国際秩序や、英語による文化支配を批判するべきです。そのうえで、例えば、輸入代替化戦略をとり、自国の資本や産業を発展させてきた日本の経験を語るべきです。

あるいは、外国から学びつつも、外国の先進の知を翻訳し、自分たちの言語で高等教育まで学べる環境を作るためのノウハウを途上国に積極的に提供すべきです。

結局、何が言いたいかといえば、曽野氏のコラムもおかしいが、今回の曽野氏のコラムに対する日本の「リベラル派」の批判の多くもマトが外れてはいないか、また、あまりにも現状肯定的で体制順応的ではないかということです。

「リベラル」を自称するのであれば、自国の経済政策の失敗を糊塗するため、あるいは自国企業の経済的利益のため、途上国の貧しさに付け込んで、彼らの労働力を安く買いたたき、自国人がやりたがらない仕事に就かせることを、「時代の流れだからしょうがない」などと軽々しく認めるべきではありません。

外国人労働者や経済的移民にならざるを得ない多数の人々を生み出す現行の不平等な国際秩序を批判すべきです。なおかつ、その不平等な国際秩序に乗じて短期的な経済的利益の追求に汲々としている現在の日本の政府や一部財界のみっともなさも指摘すべきでしょう。

そして日本の来し方を振り返り、先人の努力に感謝するとともに、日本の真の国際貢献とは何かを国民皆で考えることでしょう。

日本の「リベラル派」を自称する人々は、曽野綾子氏の今回の議論を批判するだけでなく、もう一歩先まで進んでもらいたいものです。
m9(`・ω・´)キリッ

  (http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/02/20/se-53/

欧米は元々世界中を植民地にするつもりだったのだから、現在もやり方を替えて同じことをやっているだけではないでしょうか。

日本は植民地主義に反対して戦争をして敗れました。
しかし植民地主義に染まったわけではないので、例え他国が自立し富んでいき日本を追い抜いても、チカラずくで勝者になろうだとかはせず、その状況に対応できるのではないかと考えます。

その辺になってくると、歴史的にどうだとか、哲学だとか、生き方だとか、何だか崇高な問題になってきそうなので、今日はこの辺で・・・ 。

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