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<<   作成日時 : 2014/11/05 16:29   >>

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学術界の浄化は、かなり困難かもしれない。
【藤井聡】凡庸で小心で「おバカ」な経済学者達が、世界を滅ぼす  (三橋貴明の「新」日本経済新聞)

<一部抜粋>

『 例えば本メルマガの読者の中には、

正しい公共政策がなぜ、これほどまで回避され、
間違った公共政策が、なぜ、これほどまでに推進されるのだろう?」


という素朴な疑問をお持ちの方々は多かろうと思います。

無論、その背後には、間違った公共政策を行うことで直接的な金銭的利益を得る方々がおられることは間違いありません。

その意味において、そういう「陰謀論的」側面が一部において存在していることは間違いないものと思います。が、カネ儲けをしたい人々が世の中にはゴマンと要るわけで、もしも、彼らの言い分が政府の中で通らなければ、結局は彼らの思い通りの「間違った公共政策」が展開できるとは限りません。

問題は、なぜ「間違った公共政策」が、「タダシイっていうこと」にされた上で、過激に推進されてしまうのか、という点にあります。

そこまで考えが及んだとき、もっとも重要な人々として浮かび上がるのが、

「超一流大学のエライ教授の先生方」

です。

「学界」「学会」なるものを全くご存じない一般の方々には想像し難いことかもしれませんが、「一流大学のエライ教授の先生方」というのは、絶大な権力を、「学界」「学会」において持っているものなのです

第一に、彼は、「学界・学会において、どういう研究がちゃんとした研究で、どういう研究が全然だめな研究なのか、ということを決定する権利」を持っています。

一般に、学術界では、研究というものは、最終的に「論文」として出版されなければなりません。

そして、論文として出版されるためには、「審査員達」に「これは論文としてちゃんとしたものである」という「認定」を受けなければなりません。

(神様から見れば)素晴らしい論文であったとしても、その雑誌の査読者達が、「こんなのダメ」と決めつければ、絶対に出版されません。

その逆に、(神様から見れば)全く誤った論文であったとしても、査読者達が「OK!」といえば、論文として出版されます

そして、その「査読者」の中心に位置しているのが、「一流大学のエライ大学の教授先生達」なのです。

つまり、彼らは一旦学会で権力を握れば、自分の好きな研究だけを「タダシイもの」として世に出すことができる一方、自分の嫌いな研究を「マチガッタ研究」と判定して闇に葬り去ることができるようになるのです

第二に、大学教授達は、「誰に、大学のポジションを与えるのか?」ということを決める権限(つまり人事権)を持っています。

したがって、彼が「素晴らしい」と考える人物を、助手(助教)や助教授(准教授)として雇いあげることができます。

そしてより事態をややこしいものにしているのが、「こいつは絶対に教員にしてはイカン」と考える人物が助手・准教授になることを「阻止する権限」を、多くの教授達が持っている、という点にあります。

ですから、気に入らない奴がいれば、そいつにポジションを与えることを、徹底的に阻止することができるのが、教授というポジションの強みなのです。

そして言うまでも無く、第一の権限で述べた「論文の審査」は、「大学の先生達」が行うものですから、超一流大学の教授ならば、第二の権限である「人事権」を駆使して、自分の好み通りの若い研究者を大量に育て上げ、その上で、彼らに学会の論文査読をやらせるようにすれば、ほぼ完璧に、彼の思い通りの論文だけが量産され、彼が気に入らない論文や研究者を、学会から完璧に追い払うことが可能となるのです

さらに逆に言いますと、今日の大学の人事では、「雑誌で、何本の論文を通したのか?」が最も重視される基準となります。大量の論文を出版した研究者は「優秀な研究者」と見なされるのです。したがって、第一の権限である「論文の査読権」を駆使すれば、自分の好み通りの研究をする大学教員の業績を量産させ、それを通して彼らの「就職」を徹底的に支援していくことができる一方、自分と考えの合わない研究者達の業績を「ゼロ」にしたてあげ、大学の世界から締め出していくことにも成功するわけです

ところで、こういう構造にあることはもちろん、若い研究者達は全員、理解しています。

したがって、学の道を志す若い研究者は、その出発点では、高い志を持っていたとしても、それでは絶対に業績を上げることも、大学のポジションも得ることが不可能である、ということに気づき、志を捨て去り、ただただ、権力を持つ教授連中が気に入る研究を、必死になって続けていくことになります。

もちろん、そんな下らないことなど出来ない──と考える若い研究者も大量に出てくることになりますが、そういう心ある研究者達はおおむね、途中で大学の世界でポジションを得ることをあきらめるようになっていきます。

したがって、時代を経れば経る程に、研究者はますます、教授の顔色をうかがい続けることだけが得意な、小心者で臆病で凡庸で陳腐なつまらない学者達で埋め尽くされていくようになります

──つまり、大学教授は、「論文査読権」と「人事権」を持っているのですが、この両者をうまく組み合わせれば、大学や学会といった『学術界』を、「自分が気に入った人物や研究で埋め尽くしていく」ことが可能となる一方、「自分が気に入らない人物や研究を閉め出していく」こともまた、可能となるのです

こうやって、経済学会では「ケインズは死んだ」ことになり、「新自由主義者」だけで埋め尽くされる学会が作り上げられていくようになったのです

いずれにしても、こうした構造を通して、「間違った経済政策をタダシイと言い張る、おバカな経済学者達」が、一旦、超一流大学の経済学部の教授職を握ってしまうことになれば、瞬く間に、学術界全体が、おバカになっていってしまうのです

(なお、誤解を避けるために指摘いたしておきますが、もちろん、教授の先生方が素晴らしい見識をお持ちであるなら、その学会は、素晴らしい研究と人材であふれるようになっていきます。したがって、悪いのは大学や学会のシステムなのではなく、そのシステムを悪用するおバカで陳腐で凡庸で小心者の下らない学者先生達なのです。)

なお、これは、経済学のみに限らず、人文社会系の学会は、おおむね、こういう構造を持っています(理系においては、こういうことは、起きづらくなっています。なぜなら、理系の場合は、S○AP細胞事件の例を見ても分かるように、おバカな怪しい研究を公表しても、早晩、実験を通して、そのおバカっぷりが立証されてしまうからです)

いやぁ…経済政策を真っ当な正しい方向に導くというのは、ほんっとに面倒な仕事だなぁ…と思わざるを得ません。

経済についてデータと理論を駆使して考え続けるだけでは不十分であり、凡庸で陳腐で小心者の経済学の先生方のおバカな生態を社会学的、社会哲学的に了解し、その上で対策を立てていくということが必要になったりするわけですから───                                                     』
   
               

一昔前は大学教授が言ったことは、「研究を重ねた、正しいこと」、として受け止めていた。
しかし最近では、歳を取ったせいなのか、彼らの言っていることにツジツマが合わなくなってきたのか、理由はよく分からないが、学界などの意見はマユツバ物として聞いているところがある

実際、藤井先生の言うとおりだとすると、良い教授の元で学界は良くなり、悪い教授の元で学界は悪くなる
戦後、公職追放で良い教授が追放されて、悪い(反日左翼的な)教授がたくさん教授になっていたなら、その影響は今もなお強まっていることになる

通常我々は、未来を良くしよう、学術・研究は発展させようと考える。
しかし悪い教授たちが、戦前までの研究等を焚書にしてそれらを発展させるどころか、「戦前の日本は悪かった」
とか「日本の良い歴史・伝統を破壊する」ことに熱心だったなら、だんだん歪んだ学術的実績と教育で日本をおとしめていくことは容易だったのではないか


今さらどっから手を付けるべきなのか分からない問題だが、学術界の意見とやらは眉に唾して聞いておくことが必要だということは了解した。

      

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